本場はおいしい。でも、の正体
観光地に行ってご当地の食材を食べると、「やはり本場はおいしいな」と思う。
その直後、脳内に「でも」がちらつく。
「自宅から2時間くらいで行けるってことは、日ごろ食べているものと、そんなに変わらないのでは?」
日本の流通網は優秀だ。野菜も魚も、東京にいながらかなり新鮮な状態で手に入る。海外からの輸入品ですら、思いのほか日が経っていない。
だとすれば、本場で「おいしい」と感じるのは、素材そのものというよりも、そこに至るまでの道のりや体験設計込みなのだろう。
そう思った瞬間、ちょっとだけ悔しくなる。
交通費と時間をかけて、同じものを食べて「やっぱり違う」と感じている自分は、雰囲気に乗せられているだけなのではないか、と。ぐぬぬ。
「情報」を食べているのか
少し前、Xで「裕福な人は情報を消費しているだけで、食べているもの自体は大きく変わらない」という投稿を見かけた。
確かに、と思う。
でも同時に、それだけでもないだろう、とも思う。
同じ魚でも、誰と食べるか、どんな物語を知っているかで、体験の濃度は変わる。産地の背景や生産者の思いを知っていると、味は少し立体になる。
もちろん、「それってプラシーボでは?」という声もある。味覚は客観的なセンサーではない。期待や希少性にいくらでも左右される。
でも、だからこそ思う。
体験込みで味なのではないか、と。
料理だけを切り取れば「東京でも食べられる」で終わる。
けれど、わざわざその土地に行き、歩き、少し疲れた身体で口にする一皿は、やはりその土地のものだ。
同じ素材でも、違う時間軸を食べている。
無駄を味として選べるか
合理的に考えれば、物語はあとから補えばいい。通販で取り寄せて、背景を調べて、丁寧に食べればいい。
でも人は、合理性だけでは動かない。
移動すること。
わざわざ行くこと。
時間を使うこと。
その「無駄」に、豊かさが宿る。
効率化が進むほど、その無駄はぜいたくになる。
そしてたぶん、僕が感じている「ぐぬぬ」は、味そのものの問題ではない。
その“無駄”ごと、ひとつの味として引き受けられるかどうかの問題なのだと思う。
交通費も、移動時間も、遠回りも、少しの非効率も。
それらを切り捨てるのではなく、「これも込みでおいしい」と言えるかどうか。
素材だけを比べれば大差はないかもしれない。
でも、無駄を含めて選び取った体験は、もう別の味になる。
僕が少し嫉妬しているのは、素材の違いではなく、その“無駄込みの味”を迷いなく選べる態度なのかもしれない。
編集という体験設計
ここでふと思う。
編集の仕事も、少し似ているのではないか。
情報だけなら、今は誰でも手に入る。専門家が直接発信し、AIが要約し、コンテンツは瞬時に届く。一定水準以上の情報は、どこにいても摂取できる。
では編集は何をしているのか。
素材を流通させることではない。
どの順番で出会わせるか。
どんな文脈を添えるか。
どんな体験として差し出すか。
つまり、「味」を設計している。
同じ情報でも、届け方によって手触りは変わる。読者がそこに至るまでの道のりも含めて、一つの体験にする。それが編集なのかもしれない。
効率化の時代に、編集はしばしば「中抜き」される存在になる。素材は直接届くのだから、間に立つ人間はいらない、と。
でも本当にそうだろうか。
情報が均質化するほど、「どう味わうか」の設計が差になる。
編集とは、情報を加工する仕事というより、あえて少しの無駄を引き受ける仕事なのかもしれない。回り道をつくり、温度差を残し、空気まで含めて差し出す。
本場のおいしさと同じだ。
分解すれば説明はつく。
でも、説明できることと、体験できることは違う。
だから今日も僕は、素材の鮮度だけでなく、その周りの空気まで含めて届けられないかと、ぐぬぬしながら考えている。
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