「AIっぽい原稿」が届いたとき、どうする?
おはようございます。あっという間に夏ですね。最近は蝉時雨を浴びながら仕事しています。暑いっす。
今週のテーマは、上がってきた原稿を読んで、「なんかAIっぽいな」と感じたときのことです。
最近ならではな悩みだと思いますが、ライター・編集職の方との飲み会で盛り上がりがちなテーマだったりもしますので、その対処法について考えてみたいとおもいます。
■上がってきた原稿に 「AIっぽい」と指摘したとて
「AIっぽいな」と思う原稿が届いたとき。
「ちょっとAIっぽいので直してください」と戻すのも手は手かもしれないのですが、難しいのは、そういわれても相手は「何をどう直せばいいのか分からない」ということです。
こういう指摘をしたとて、
「どこがAIっぽいのでしょうか…」
「もっと具体的に教えてください」と平行線をたどる光景も。
ただ、どこがAIっぽいかを言語化し、修正を促していくと、
それってなんだか、自分がAIに指示を出しているのと同じような感じになってしまうという。
こういうもやもやは最近ならではだなぁと思ったりもします。
※ちなみに、Wikipediaの編集有志が「AIらしい文体の特徴」を24個にまとめたリストがあります。それによると、AIっぽい文章に共通するのはいかなどなど。こういうの知っておくだけで、「こういうものはAIっぽいとされています」と打ち返せるので、おすすめです。
大げさな意味づけ(「〜の証」「〜を象徴する」)
中身のない持ち上げ(「豊かな文化」「息をのむ美しさ」)
書き手の私見のはさみ込み(「重要なのは」「特筆すべきは」)
「単に〜ではなく、〜だ」の対比構文
「さらに」「加えて」「しかしながら」でとりあえずつなぐ接続
三つ並べて調子を整える言い回し(「速く、正確で、力強い」)
「〜することで、利便性を高めています」型の、中身の薄い締め
出典のない「業界では〜と言われている」
事実のように書かれた、実在しない参考文献
太字や見出し、ダッシュ(—)の乱用
「◯◯:〜」と太字の見出しをつけた箇条書き
■ 「AI使いましたか」ではなく「どう作りましたか」
まず浮かぶのは、「これ、AI使いました?」と単刀直入に聞くことだと思います。
ただ、この聞き方はけっこう微妙かもしれない、とも思います。
なんとなく「はい」と言いにくい空気が漂う中、建設的なやり取りにつながりづらい印象があります。
それに、仮に「使いました」と認めてもらえたとして、それで目の前の原稿が良くなるわけでもありません。AIを使うこと自体を禁止するというのもあり得ますが、AIの利用が一般的になりつつある時代の流れの中では、限界もありそうな気がします。
見るべきは、使ったかどうかではなく、どの工程で、どう使われて、その結果どういう原稿になっているか。
だから聞くとすれば、「この原稿、どうやって作りましたか」を聞くのが大事かなあと思います。
どこでAIが登場したかによって、原稿に残るAIっぽさの種類は変わります。
構成から任せていれば、筋は通っているのに取材の体温がない原稿になりがちです。下書きを生成して人が直したなら、文体がのっぺり均質になる。仕上げの整文だけ任せたなら、さっきのリストのような言い回しが混ざる。
裏を返せば、工程が分かると、直す場所の見当がつくということです。
聞くときは、順番を決めています。
まず、「責めたいわけではなくて、制作の流れを知りたいんです」と目的を先に伝える。次に、構成・下書き・推敲のどのあたりで何を使ったかを、ほどきながら聞く。そのうえで、原稿の具体的な箇所を指して「ここ、取材で聞いた話と少しずれている気がします。どの工程でこうなりました?」と突き合わせる。
工程の話と、原稿の実物。この二つを往復すると、犯人探しではなく、フローを一緒に改善する相談に変わっていきます。
そういう姿勢が、特に長くお仕事をお願いする相手とは、大事になっている気がします。
■ 「あなたは、もっと面白いはず」どこまで信じられるか
とはいえ、こういうやり取りって、骨が折れますよね。1ラリーでも少なくしたい、と思ってしまうのもまた人情です。
正直僕も、預かった原稿をAIをお供にちゃちゃっと直してしまいたくなることがあります。
でも、こういうときに強く思うのは、これからの編集者は、「あなたの文章は、もっと面白いはず」「あなたはもっと面白いことが書ける」と、どこまで信じられるかが大事だということです。
相手から原稿を預かって、AIと一緒にささっと直してしまうか。相手を信じて、「もっと面白くしましょう」と手を取れるか。
これからの編集者の仕事は、この辺がはっきり分かれていく予感があります。
■ 今週の議題
皆さんの現場では、「AIっぽい原稿」が納品されてきたとき、どう対応していますか?ぜひぜひ教えてください!
このメールに返信するでも大丈夫です!感想やお考えだけ送り返すでも、ぜひ!
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それでは、また来週!
■ 先週の「素数みたいな人」に、返ってきた声
先週の「素数みたいな人」に反応をくださったみなさま、ありがとうございました!!
思っていたよりずっと多くの声が返ってきて、とてもありがたかったです…!
さとゆみさん宣伝会議の講座を受けたことがありまして。そこで課題の講評として話されてたのが、"誰かの話を深く深く掘っていくと、別の誰かの深いところを通っている水脈に届く"、と(言い方は違っているはずですが)。(身振り手振り交えつつ話して下さったのですが、そのイメージとしては、2つの井戸をそれぞれ掘り進めると、地下深くで共通の水脈にぶつかる、という感じ)。
自分が課題に取り組むとき、正に、「万人に分かりやすく届けるには、最大公約数の部分にフォーカスして、『余り』は捨てるべきだよな」と考えたけれど、さとゆみさんの考えはそうではないのだな、と思った出来事でした。
深く掘ると水脈に届く。なるほど、と唸りました。
浅いところで横に割るのではなくて、深く掘って、地下の水脈で通じ合う。僕は先週、「万人に届けるには最大公約数にフォーカスして、余りは捨てる」ような書きぶりだったのですが、さとゆみさんの発想は、まるで逆。同じ「割り切れる」でも、向きが正反対なんだなあと。
最近気になっていることのひとつに、小中学校(高校はわかりませんが)の国語の教科書で、物語文が少なくなってきていることがあります。物語を読んでそこから自分なりに考察するよりも、ディスカッションをする場面が増えている印象です。
自分の気持ちを言語化する練習自体は大事なことですが、周りを納得させるために自分の気持ちが多少歪んでしまう(本来感じたままではなく、みんなに理解してもらいやすいように言葉を選ぶ)、ということもある気がしています。
それはまさに、まむしさんの言う「素数」的な部分だったはずなのに、その訓練を重ねるうちに、素数ではなくなっていってしまうのではないか。そんな風に子どもの教科書を見ていて感じることがあります。
素数的な価値観がだんだんとそぎ落とされて、「優等生的になっていく」というのは確かに、、教育現場で意図せず起こっている事象なのかもしれないですね…!子どもの個性を考えるうえでも、僕自身意識していこうと思いました。ありがとうございます!
まむしさんの参考にならなくて申し訳ないのですが、私は一般的な雑誌やwebサイトなどに「素数みたいな自分」をうまく言い表してもらうのは無理だろう、というあきらめを持っています。
むしろフィクションの小説や、物事の結論を出さない俳句や短歌のほうが自分に寄り添ってくれている感覚があります。現実世界では自分に寄り添ってくれる存在はほぼ皆無だろうと思うからこそ、フィクションの世界が心の拠り所になるのでしょう。
誰にも受け止められない考えや個性に寄り添ってくれるコンテンツとしての小説、短歌・俳句の価値。確かに過ぎますね。思えば自分自身を振り返っても、めちゃくちゃ個別性の高い絶望感に向き合っている時、共感できるのは小説などだったように感じます。深い。
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